生い立ちと足あと


生い立ちと足あと

1947年10月生まれ

郡山市立赤木小学校卒業
郡山市立第二中学校卒業
福島県立安積高等学校卒業

この頃は野球に明け暮れていました。
小学生時代はいわゆるガキ大将、中学から本格的に野球を始めて、高校生の時は甲子園には出られなかったけど、県大会でホームラン打ったのは、今でも自慢ですね。





早稲田大学商学部時代



1969年 7月
初代自治大臣故石原幹市郎参議院議員秘書 (~1971. 9)



1970年 3月
早稲田大学商学部 卒業(スキー同好会WSSに所属)

18歳時の写真


スキー同好会に入りスキーを楽しみ、今もクラブ仲間とは付き合っている。
米国では冬季オリンピックが開催されたスコーバレーで4ヶ月間スキーを楽しんだ。
また、国会議員秘書として仕事をしたことが、のちの政治家人生に大きな影響を与えます。
特に、選挙の怖さを知ったのも、この時ですね。


渡米時代

アメリカ大統領選挙を視察(共和党:ニクソン vs. 民主党:マクガバン)



ケネディ大統領暗殺がとても衝撃的で、40歳の政治家に大国米国のかじ取りをゆだね、その人物が暗殺される。日本ではありえないそんな社会に飛び込んで、米国社会を体験したいと思った。
72年の大統領選を体験したく船で渡米しました。
大勢の方達との出会いと、アメリカの選挙戦を目の当たりにして、民主主義や選挙が良く理解できた。


政治家の道へ

72年帰国、家業を継ぐ

商売人の息子ですから、ちゃんと事業を継いで大きくして、盤石の態勢にしてから政治家だ!と決意して、10年で年商を10倍にする!と決めて家業を継ぎました。
この時、10年後を見据えて応援してくれる仲間を募りながら、家業にまい進したのが、私の政策や選挙手法に大きく役立っています。
当時は、中小企業の重要性を考える政治家はあまりいなかった時代でした。
大店舗進出反対運動や権力志向の体制に挑戦するなど、反骨精神が強かったこどが、今も多方面につながっていますね。


1983年 4月
福島県議会議員(1期~1986. 6) 郡山市選挙区から1万2,409票で初当選(無所属)35才でした。
自民党追加公認となり、自民党県連青年部長になりました。
その後、自民党本部青年局中央常任委員に就任しました。


県議会での役職
総務公安委員、高齢化社会対策特別委員、企画農林委員





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選挙戦では、誰もやったことの無いような戦術を導入、その中の一つに、今も私のトレードマークになっている『てるてる坊主』があります。
明日天気にしておくれ。明日世の中を良くしておくれ。の精神です。
今までになかった政治潮流作り、そして、固い結束の仲間たちのおかげで、政治家人生をスタートさせてもらえることになったのです。


最初の自民党離党

1984年 3月 自民党離党

県議当選後2年目でした。郡山市長選挙があり、自民党が推薦する市長ではなく、対抗馬の選挙対策本部長をやりました。
当時の現職には駅前再開発や大学誘致など、あまりにも強引過ぎて、市民のコンセンサスを得ませんでした。
強大な権力と闘うために、政治家として市民のために決断する必要があり自民党を離党しました。
結果、政治家として決断力のある、行動力のあ若手政治家として評価を得て、国政選挙に打って出るきっかけにもなりました。
反面、若いくせに生意気だとの批判もありました。


落選、そして国会議員へ!




1986年 7月 衆議院総選挙 立候補
無所属で初挑戦、福島1区で4万2575票を獲得するが惜敗


1990年 2月 衆議院議員 初当選 無所属で福島1区において5万8301票を獲得し、無所属で初当選することが出来ました。

安倍晋太郎先生の清和会から認知され、保守系無所属として戦い、当選後、県議と同様に追加公認となりました。
ちなみに当時の幹事長は小沢一郎さんでした。

衆議院での役職
・運輸委員(~1993.6解散)
・安全保障特別委員 ※1991.2より理事(~1991.11)
・国際平和協力等に関する特別委員(~1992. 6)
・議院運営委員(~1993 .6解散)

自民党での役職
・国会対策委員(~1993. 9)
・青年局長(~1993. 9)


1993年 7月 衆議院議員 2期目 自民党公認候補として福島1区において6万367票を獲得し、2期目の当選

衆議院議員としての役職
・議院運営委員
・運輸委員
・政治改革に関する調査特別委員

初めての落選を経験する事になりました。
落選期間中は、基盤を作って自分の力を蓄える期間として、とても有効でしたね。
その甲斐あって、初当選、そして2回目の当選を果たす事が出来ました。雌伏の時間は人を成長させると言いますが、私の場合はまさにその通りでした。
この間、政治改革としての選挙制度改革に取り組み、莫大な資金が無ければ立候補さえかなわない中選挙区制から、資金力のない若者でも立候補出来て、政権交代も可能な小選挙区制への制度変更を目指して活動しました。
国会議員としての自民党は2期目途中まで、政治家として様々なことを学ばせて頂いたのも、自民党でした。


2度目の離党、そして二大政党制へ

1994年 4月 自由民主党 離党、新党・みらい 結党



羽田連立内閣が総辞職。
首班指名で自民党は、社会党、さきがけと共闘し村山社会党委員長を擁立し、自社さ連立政権を樹立します。
旧連立政党は政治改革を断行するため、新党・みらいをはじめ、新生党、日本新党、公明党、民社党、民改連など8つの党派が合併し、「新進党」を結党


衆議院での役職
・商工委員会理事

新進党での役職
・福島県連合会 幹事長
・政治改革・政党政治を推進する会 発起人
・地方局長


小選挙区比例代表制選挙スタート

1996年10月
小選挙区比例代表制になった初の選挙で惜敗(8万8661票)

比例代表との重複立候補を潔しとしない考えだったため、小選挙区で敗北した私は、国会議員としての職を失いました。
自分達の手で作った新制度なのに、自分自身が当選出来なかったのは本当に悔しく思いましたが、それよりも先に自分の実力の無さを改めて痛感しました。

1998年 4月 民主党 結党に参画

前年末、新進党が解党。
直後に政治改革の同士であった鹿野道彦議員らとともに「国民の声」を結成。翌1月には「国民の声」、「フロムファイブ」「太陽党」と合併し、「民政党」を結成。
3月までに「旧民主党」、「新党友愛」などと再度合併し、「民主党」を結党。

腐敗と汚職、金にまみれた政治の浄化をするためにも、政権交代がいつでも起こせるような、政治的な

緊張関係を作る事の出来る、二大政党制に持ち込む必要があると考えました。
中小の政党が割拠している中で、想いをひとつにして生まれたのが、『民主党』でした。
自民党にいれば自分の身は安泰かもしれません。でも、それでは政治がまともな国になる事は永遠に無理になってしまう。
政党を何度か変えていますが、『この日本に二大政党を作り、政権交代可能な政治を実現する!』の旗印は全く揺るいでおりません!


2003年 11月 衆議院議員 3期目 比例代表として当選

衆議院議員としての役職
外務委員…2004. 2より野党筆頭理事
憲法調査会委員
外務委員会 北朝鮮による拉致及び核開発問題等に関する小委員会幹事

国会議員年金廃止民主党議員連盟会長に就任

7年ぶりに国政に返り咲いた私は、その間の想いのたけをぶつける様に、仕事にまい進します。
特に外交分野には自ら進んで手を挙げて、外務委員になりました。
国際競争力の強化、資源・エネルギーの確保の重要性、世界各国との関係強化による貿易立国としての地位向上を目指して仕事しました。
それともう一つ、議員年金廃止…国会議員は特権階級だといわれる原因の一つである議員年金の廃止にまい進しました。

…しかしこの後、いわゆる『郵政改革選挙』で落選してしまいます。
この選挙が、党首の力の大きさが結果を左右してしまう初めての選挙であったのとともに、日本の選挙の流れを一気に変えてしまったターニングポイントだったのではないかと思います。


参議院議員として政権交代、そして…